2010年以降大議論になっている、都非実在漫画規制条例の報告会が、14日浅野都議によって行われました。
私も行きたかったのですが、行きそびれてしまた…あう。
機会があったら行きたいと思います。
○参考
浅野克彦都議(練馬区)主催の『東京都青少年健全育成条例報告会』実況と感想まとめTogetter上のTogetterからものすごく気にかかった審議会の思想が見うけられましたので、それについて書きたいと思います。
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あさの都議「不健全図書指定に対して、簡便に不服審査請求ができる制度を作るべきとは考えているが、それをすると審議会で真剣な議論ができなくなるのではないかという懸念がある」都にかぎらず、現在の有害図書指定システムは、反論なしに審議会が一方的に有害図書を指定することが可能です。
審議会メンバーの選び方や議事録公開で、バランスのいい運営をめざしているようですが、システム的には
行政が一方的に有害図書指定ができるシステムになっています。
そして有害図書条例というのは、有害図書に指定された本は、世に流通することがほぼできなくなるいわば
本に対する死刑宣告という、かなり強力な権力システムです。
(注意喚起や交通違反切符を切られる程度の軽いものではなく、死刑宣告と同じくらいの重い処置であるというところに注目。行政は検閲批判を嫌って発禁本という言葉は使いませんが、社会通念上(裁判でも通用する社会通念上)発禁と同じ処置と考えてよい)
(有害図書というのは建築基準のように明確な線引きができるものではなく、時代背景、読む人の人生観、その他もろもろによって、いくらでも違った見方ができる)
そんな強力な権力システムで、あやふやな条例でもあるにもかかわらず、指定された本の作者や出版社の
反論の機会はそのシステムの中にはないのです。
もし反論する場合、有害図書システム以外の裁判で、という形になります。
審議会に反論する場を与えろと要望する声も多数なのですが(自分もエントリーに書いたし意見も送った)、それをしない理由として行政は『
それをすると審議会で真剣な議論ができなくなるのではないか』と言っているわけです。
そういった理由が通るのでしたら、検察官vs弁護士が争う
近代裁判制度は真剣な議論ができていない、という結論にもなりますな。
司法・行政・立法が互いに監視しあう三権分立という大原則も、『
真剣な議論ができないシステム』ということになります。
愕然とするのは、上記見解をみるに、いくら日本が先進国だといっても日本人が優れているといっても、結局自分で三権分立や裁判システムや民主主義はつくることができないんだな、という…。
システム構築の場合、政治家・行政・国民・会社などなど、なるたけ日本国(条例の場合のその地域)全てが(全ては無理にしてもなるべく全て)うまく回るようなシステムを構築しなければならないのですが、結局
行政だけがうまく回るシステムしか構築できないという…。
話しかわって、ここ近年話題になっている憲法改正論です。
私思うに、改正する条件として、改正前より、より良い憲法にするというのは当たり前なわけですが、上記行政思想にみられる
近代裁判制度も三権分立も自分たちで発想することができない人種に、はたして良い憲法が作れるかというと、かなりの疑問があります。
石原都知事も、「今の憲法は国を縛ることばかり書かれていて、国民規範についてのことはわずかしかない。これではだめだ。改正しなければ」と報道2001でおっしゃっておりました。
いやいや、そもそもの近代憲法の発想(のひとつ)は
権力を規制するためのものと聞きましたよ。
国民が間違った方向に行っても、せいぜい10人ぬっころすとかその程度ですが、権力が間違った方向に行くと何万~何百万単位で死者や不幸者がでますものね。
福島原発行政をみれば一目瞭然。
ほんの少しの行政の間違いが、何万人単位で不幸がおこります。
で、日本国全体をうまく回すためには行政自ら規制されることもいとわない(三権分立や選挙システムなどなど)、という発想が行政にできればいいのですが、上記審議会の『それをすると審議会で真剣な議論ができなくなるのではないか』という理由で作者・出版社の反論の機会を与えていないのを見ると、行政にその発想はまったくないと結論づけることができます。
ゆえに現在の憲法にいくら不備があるといっても、それを作る日本人の発想そのものがアメリカ人より劣っているので、改正するのは危険。
コメント
(* ̄┏Д┓ ̄)
2012/04/18 URL 編集
いのの
2012/04/21 URL 編集